醸

Vol.1
 福澄哲夫さん(東日本支部初代副支部長:昭29卒)を偲ぶ
新見 治(昭29卒)

福澄 哲夫

新見 治
 夜、帰宅して、カバンを置いたとたん、家内から「福澄さんの奥さんから電話がありましたよ。要件は言われませんでしたが・・・」と聞かされた。奥さんとは一、二度会ったことがあるだけだったので、一瞬“もしや”との思いが頭をかすめたが、全く気にもとめず早速、福澄宅に電話した。平成14年4月のことであった。
 電話の向こうから、「実は主人が一週間前に亡くなりまして、葬儀を終えたのですが、新見さんがご存知ないのかもしれないと思い電話した次第です。」という奥様の声に全く驚いてしまった。かねてから体調を崩し、入退院しているらしいと聞いていたが、何の病気か知らなかったし、突然の電話の内容だったので、病名を聞くことさえ思い付かずに受話器を置いてしまったため、病名を知るチャンスを逃してしまった。奥さんの話では、病院のベッドの上に座ってパソコンを打ったりして体調も回復し、退院も間もないと思っていたのに、突然死亡したので奥さん自身も驚いているとのことであった。後に、ほかの人の話から察するに肺癌であったようだ。
 福澄君は卒業後直ちに日本専売公社に入社し、中央研究所でたばこの香料の研究に従事したようである。公社での彼の活躍の多くは、私の知る由もないが、ある時期には、倉敷のたばこ試験場の場長に赴任し、公用車付の官舎に住んでいた事もあった。その後も再び中央研究所に勤め、二つくらいの研究室長を兼ねていたこともある、研究所でのアクティブな存在であった。定年前には日本たばこ(JT)になって、開発本部長という技術系最高位のポジションにつき、霞ヶ関の元日本専売公社の幹部室に「でん」と座っていた。定年後、霞ヶ関近くのダイセル化学工業に移り、そこの定年後は私企業に関係した仕事をしていたようであった。
 私が、広島醗酵会会長になった平成の初め頃に、醗酵会の関東支部が、長年お世話頂いた昭和8年卒、鈴木与二郎氏のご逝去により、分解の危機に陥った。私はJTの福澄君に電話して、長年続いてきた醗酵会関東支部を、関東以北を含めた東日本支部として再建して欲しい由を頼んだ。彼は快く引き受けてくれ、幸いに、昭和37年卒竹内氏の援助もあって、ニッカウヰスキーの竹鶴社長を支部長とし、自らは副支部長となって、旧高専と大学卒が一体となった新しい東日本支部を作り上げて頂いた。以後何回か、支部総会にお招き頂いたが、参加人員も多く、最も活気に溢れた支部として再生していただいた。彼の努力を感謝致している次第です。
 彼は体格の良い、豪快な人柄であり、頭脳明晰、一方で、人に対する繊細な思いやりのある温かい人柄、更に、文章表現が巧みで、達筆家でもあった。その上、スポーツマンでもあった彼は、日本たばこ時代、女子バレー部の監督をしていたとも聞いた。日本たばこやダイセル化学の人達だけでなく、踊りの家元、箏の師匠、寿司屋の主人等々、広い範囲の人々との交流があった様である。彼の死後、彼を偲ぶ多くの人達の追悼文を集めた文集も出来た程で、多くの方々から、親しみと信頼と尊敬の念を抱かれていたようである。
 今年、私たち同級生が、卒業後50周年の会を持とうとしている時に、彼はもう会えない人となったことを痛感し、誠に残念に思う。心からの冥福を祈るのみである。(平成16年記す)
 
97.11.15東日本支部総会にて集う昭29卒同級生
(右から福澄さん、宇津巻さん、若桜さん)


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